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白旗史朗写真集「山の花抒情」 [山歩き・ウォーキング]
初めて南アルプスへ出かけた時に買った写真集です。
新型ウイルス感染症が流行し世界中が混乱しています。早く終息してくれる事を願うばかりです。
そんな状況を受け、山SNS「ヤマレコ」では過去の山行を振り返るキャンペーンが始まり、古い山行や日記のレポートが続々アップされています。その中で白旗史朗氏のことを書いた日記が目に留まりました。
そんな状況を受け、山SNS「ヤマレコ」では過去の山行を振り返るキャンペーンが始まり、古い山行や日記のレポートが続々アップされています。その中で白旗史朗氏のことを書いた日記が目に留まりました。
1988年の夏、teppanは友人と3人で南アルプス北岳を歩きました。山歩きが終わった後に「アルペンプラザ広河原」に立ち寄り、記念にマグカップを買ったのですが、置いてあった白旗史朗氏の写真集もいっしょに衝動買いしてしまったのでした。
当時は観葉植物や庭の花とかは多少触っていましたが、特に高山植物に興味があるわけではありませんでした。定価を見ると1900円、普段なら絶対に衝動買いするような値段じゃないのに、この時は初めての南アルプスで気分がhighになっていたのかもしれません。
ちなみに、この写真集の表紙を飾っているコマクサですが、小学生の時に見た図鑑に紹介されていたのが印象深く、子どもの頃からぜひ会ってみたいと思い続けてきましたが、山を歩く様になったおかげで願いが叶いました。
荒川前岳とタカネシオガマ。「南アルプスと言えば白旗史朗氏」のイメージができあがった。
荒川前岳とタカネシオガマ。「南アルプスと言えば白旗史朗氏」のイメージができあがった。
三俣山とミヤマキリシマ。この写真でミヤマキリシマの名と共に九重連山がしっかりと脳裏に刻まれた。
※今年(2020年4月)九重で登山者のバーナーの不始末で山火事が起き、ミヤマキリシマの被害が大きかったそうです。国立・国定公園内の許可されていない場所で火器を使用すること自体軽率な行動ですが、どこであっても火の取り扱いは細心の注意が必要です、気をつけたいですね。
この写真集には高山植物の写真が幾つも載っているのですが、購入した理由は北岳を歩いた時にたくさん見かけた植物の名前が知しりたかったからだと思います。
以来「白旗史朗」の名を知るようになって今日に至るわけですが、氏の他の本を買うわけでもなく、写真展を見に行くわけでもなく、ただ名前を知っていると言うだけでしたが、この本を手にしてから「南アルプス=白旗史朗」のイメージは強く残っていて、尊敬する写真家であると言うことは、この時から今日までずっと自分の意識の中にありました。
巻末に書かれている「山の花 愛する小さな友人たち」から一部ですが抜粋してご紹介します。
(冒頭の部分)
山の花、野の花…。
巧まざる可憐さと美しさで私を魅了する、この小さな友人たち…。
公園の花壇をいろどり、あたりせましと咲きほこる、実にさまざまな色、形、匂いをもった花々。
それらもまた美しく、私の心をさそい、なごませてくれる。しかし、それらの花々は強いていえば私には強烈すぎるようだ。自然のたたずまいの中に生きる花々にくらべて、色も、形も、匂いさえも、私にはそう思える。
それは、これらの花が本来の姿かたちを人間の手によって心ならずも変えられてしまった、が、ための宿命であろうか。
山の花、野の花…。
巧まざる可憐さと美しさで私を魅了する、この小さな友人たち…。
公園の花壇をいろどり、あたりせましと咲きほこる、実にさまざまな色、形、匂いをもった花々。
それらもまた美しく、私の心をさそい、なごませてくれる。しかし、それらの花々は強いていえば私には強烈すぎるようだ。自然のたたずまいの中に生きる花々にくらべて、色も、形も、匂いさえも、私にはそう思える。
それは、これらの花が本来の姿かたちを人間の手によって心ならずも変えられてしまった、が、ための宿命であろうか。
(おしまいの部分)
山の花はストレートに見るだけで美しい。(中略)新しアングルを狙いすぎたり、極端な接写は、奇抜かつ幾何学的な形象を生み出すが、ムードの表現方法としてはいささか不適当だ。したがって、私の撮影方法はいわゆるミクロの表現でなく、たんなるマクロでもない。自然のあらわす美の現象に対して、こちらもいたって自然な表現をと、それをこころみることとなった。
そうしたこころみをつづけるうちに、奇妙なことだが、花と私との間に何か気持ちがかよい合う気がするようになった。むろん言葉が交わせるわけのものではなく、自分のひとりよがりにすぎないだろうが、カメラを構えて花と相対しているとき、いまだ!という花からの呼びかけが何度あったか知れない。また、今日は気がすすまない、という拒否を受けたこともいくたびか、そうしたときの写真は当然、どうみても不出来である。
いつもいつも、花からの呼びかけがあれば、私でもきっと素晴らしい写真が撮れるだろう。今年こそ、来年こそ、いつも私はそう考える。そのときのたのしさが、また私を山と花に駆り立てるのである。
山の花はストレートに見るだけで美しい。(中略)新しアングルを狙いすぎたり、極端な接写は、奇抜かつ幾何学的な形象を生み出すが、ムードの表現方法としてはいささか不適当だ。したがって、私の撮影方法はいわゆるミクロの表現でなく、たんなるマクロでもない。自然のあらわす美の現象に対して、こちらもいたって自然な表現をと、それをこころみることとなった。
そうしたこころみをつづけるうちに、奇妙なことだが、花と私との間に何か気持ちがかよい合う気がするようになった。むろん言葉が交わせるわけのものではなく、自分のひとりよがりにすぎないだろうが、カメラを構えて花と相対しているとき、いまだ!という花からの呼びかけが何度あったか知れない。また、今日は気がすすまない、という拒否を受けたこともいくたびか、そうしたときの写真は当然、どうみても不出来である。
いつもいつも、花からの呼びかけがあれば、私でもきっと素晴らしい写真が撮れるだろう。今年こそ、来年こそ、いつも私はそう考える。そのときのたのしさが、また私を山と花に駆り立てるのである。
白旗史朗氏は昨年(2019年)ご逝去されました。
当時アルペンプラザ広河原で買ったマグカップ。今も現役で山へ連れ出しています。
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